2011年6月16日木曜日

「全面講和か単独講和か」で大人になった

はじめてブログに書くことになりました。2011年9月1日で喜寿を迎えます。平成7年の定年まで鹿児島県にある南日本新聞社の記者をしていて、3年前に東京へ転居しました。老い先のことを考え、一人娘の家族と二世帯住宅で暮らすためです。
「はなしの散歩」と題して、気の向くままに書きますので、よろしくお願いします。
(丸野信一)
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「全面講和か単独講和か」で大人になった  2011年6月15日(水)

<偉い人たち必ずしも正論ならず>
私の人生は「吉田首相の踏み切った単独講和」から始まった。変な言い方だが、世間というものに対して大きな疑問を持ち、ものの見方について考えさせられるきっかけとなったのでよく覚えている。
中学上級生の昭和24、5年ごろ、わが家の親子ラジオのニュースは連日のように「単独講和か全面講和か」で持ちきりだった。父がセンベイ作りを稼業としていたので、私は放課後や日曜日には必ず手伝いをさせられていたため、嫌でも聞き知ることになったのである。
サンフランシスコ講和条約締結の前、日本は米国の占領下にあった。この講和を結べば独立できることになっていた。そこで第2次大戦に関係した55か国すべてと講和を結ぼうという「全面講和論」の考え方があった。たとえ独立が遅れても、敗戦日本が自由主義国・共産主義国対立の渦中に再び巻き込まれてはならないというのが趣旨だった。一方、吉田茂首相は「今後は米国主導の自由貿易の世界になる。これに乗り遅れてはならない。険悪化する両陣営の思惑よりも、まず日本は独立して経済を再建するのが先決だ」と、米国との単独講和を頑強に主張していた。
地元南日本新聞はもとより朝日新聞をはじめマスコミの多くが、東大・南原繁総長を筆頭に著名な知識人の主張する全面講和論を支持している気配だった。この主張を支援する岩波書店が斡旋して出来た平和問題懇談会には、南原のほか、大内兵衛、丸山真男、清水幾太郎ら錚々たる知識人が名をつらねていた。
昭和25年3月28日の東大卒業式で南原総長はこんな講述をしている。『「冷たい戦争」は、今や東南アジアに燎原の火のごとく拡がりつつあり、わが国にとつて対岸の火災視し能はぬものがある。(そんな時に)「単独講和」説ぐらゐ、短見にして速断的なものはあるまい。(中略)もしこれによって軍事同盟や軍事基地設定を条件として考ふるものであるならば、それこそわが国の中立的性格を放棄し、その瞬間に敵か味方かの決断を敢えてすることになり…』(文藝春秋編『戦後50年 日本人の発言・上』)
こうしたニュースを聞いていて、中学生である私でさえ疑問を持った。「全面講和論を主張する偉い人たちの理屈はもっともであり確かに理想的ではある。でも、始まったばかりの冷たい戦争は一体いつ終結するとみているのだろう。それまで日本は占領されたままで独立できないとすると、日本の再建は遅れるばかりではないか。やはり今は、吉田首相の現実的な単独講和の方がベターな気がするのに…」
結局、昭和25年6月勃発の朝鮮動乱を契機に、共産主義に対する警戒心から国民は「単独講和」へ大きく傾いてゆき、翌年9月にサンフランシスコ条約は締結された。
私は高校に入ったばかりだったが、この大きなニュースを知った時、人生最初の「矛盾」を学んだ。「中庸を是とするマスコミも、高い地位にある学者たちも、決して世の中の大きな流れをいつも正しく把握できるとは限らないのだ。結局、自分がほんとうに納得するためには、コツコツと納得のゆくまで自分で調べあげ、学んでゆくしかないのだなあ」と。
高校時代に、小泉信三という偉い知識人がおり、南原繁総長などとは違って「単独講和」の賛成論者だった。現実的にものをみる知識人がなかにはいるのだと知ってほっとした。結局、国際政治は大資本の論理で動く度合いが強い。だから小泉信三も吉田茂も旧財閥の情報を知っていて〃独立がまず最初だ〃と分かったに違いない。それに対し野党や左翼知識人は共産主義に傾くあまりに、現実的視野に欠ける部分が生じるのではないか、と思うようになった。
<英仏にはびこった赤化思想>
この全面講和論にみられた「知識人の現実錯誤」は、日本だけの問題ではなく、英仏がそうだったのを知った。それは私が社会人になってかなり経ってからだった。きっかけは英国の行動作家ジョージ・オーウェルの『動物農園』を図書館で偶然に手にした時。この作品は動物になぞらえて、独裁と全体主義、革命の堕落を徹底的に諷刺し、ソ連革命の失敗を予見した寓話で、政治小説としてはまれにみる成功作とされる。
驚いたのは、1944年2月に脱稿したのに4つの出版社に断われていたということ。当時英国はソ連と同盟して対ナチ戦を戦っているさなかで、政府筋に歓迎されまいというヨミもあったろう。それよりも出版社や編集者そのものが、左翼文化人に牛耳られていたらしくて、英国思想界の目が怖くて出版を拒否したのが主な理由だったとのことだ。
資本主義国側は1929年の大恐慌などで低迷するのに対し、マルクス主義は「科学的社会主義」と銘打って千年王国の福音を垂れ、明るい未来の幻影を見せていた。そして不況のせいで西側の知識人に失業者が増えたこともあって、左傾化する知識人が多く出たらしい。
この間の事情は、日英近代政治史専攻の水谷三公著『ラスキとその仲間たち-「赤い30年代」の知識人』(中公叢書)に詳述されている。これによると英国リベラル派の知識人らがいかにスターリン体制下のソ連を擁護したかに、改めてびっくりしたものだ。
たとえば劇作家のバーナード・ショウ。1931年の夏、彼は凄まじい飢餓に苦しむソ連を訪問し、「全体の利益のために農民を抑圧し、収奪するのはやむを得ず、集団化と科学的農法のおかげで収穫は3割も増えた」とのんきなことを言っているではないか。
フランスも大同小異。アンドレ・ジイドが『ソヴェト旅行記』で控え目ながらソ連批判をしたのに対し、〃文豪〃ロマン・ローランは「この悪書は、驚くほど貧弱かつ表面的で、幼稚かつ矛盾した本である。ソ連の歴史と発展の歩みを止め得る者はない」と大上段にジイドを切って捨てている。
 英国の赤化がどんなものだったかを端的に示す話がある。渡部昇一著『ハイエク--マルクス主義を殺した哲人』(PHP研究所)がそれだ。
ハイエクはオーストリア人でノーベル経済学賞を受けた人。19世紀から20世紀にかけマルクスの『資本論』が強力なマインド・コントロールを世界に仕掛けたとすれば、ハイエクの『隷属への道』はそのコントロールからの有効な治療薬となった。のちにサッチャー英首相のバイブルとなって、社会主義思想に傾いた自国を救済した。さらにレーガン政権と共に、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の瓦解へと導いた重要な思想である。
最初、ハイエクはナチから逃れ英国へ亡命した。母国での苦い体験から、英国を襲いつつある「赤い30年代」を憂い、同書で警告したのである。「左の社会主義」(共産主義)も「右の社会主義」(ファシズム)も本質的には同じ全体主義なのであり、結局は西欧的な個人主義を潰し、人間の自由を奪うと、簡潔に述べた。
ところが出版されるや、左翼陣営が怒りだしたため、彼はいづらくなって米国へ亡命する。ここでは幸い反発どころか大きな反響を呼んだ。赤狩りのマッカーシズムに揺れるお国柄だから当然のことだが、彼はここでシカゴ・スクール・オブ・エコノミクスをのちにつくっている。
ごく最近、当時の欧州のインテリによる左傾化がいかに浸透していたかを、マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(白水社)を再読する機会があって、納得させられた。「これからはロシア語を学ぶ時代になるね」といった会話が出てきたりして、赤化ぶりが具体的に述べられ、ため息をついたものだった。
しかし西側でも、やがて大不況を克服するために始まったアメリカのニューディール政策に代表される、ケインズ経済学に基づく修正資本主義の時代になってゆく。するとさしもの「赤い30年代」も色あせる。端緒となったのは1939年の独ソ不可侵条約の締結だ。知識人は次第に失望し、離反していく。第2次大戦後は、「数多くの大粛清を命令した」という56年2月のフルシチョフによるスターリン批判で多くの人々が仰天した。さらに8か月後のハンガリー動乱、68年のチェコ事件と続いて、知識人たちはソ連不信へと変わっていった。
<共産主義からの脱皮に遅い日本左翼>
ところが日本の左派知識界は英仏のようには、素早く共産主義から転身はしていかなかったようだ。陸続きで侵略されやすい大陸と違って、島国では切実感がなく、うといということか。転向者としての林達夫などは誠実な方で、「西欧知識人の型に近い態度で、ソヴィエトに愛着をいだいていた。その彼が戦後すぐ、自分でこのユートピアを疑い出し、苦心して材料を集め、研究し、フルシチョフ秘密演説の五年前、疑惑を表明する論文を書いた」(渡辺一民『林達夫とその時代』岩波書店)とある。
また林健太郎のように「かつて信じた真理の誤りを認めるのは辛いことであって、そこで初めはなるべくそれを認めまいとする。都合の悪い事実は〃デマ〃であると言って否定」(『昭和史と私』文藝春秋)したと、心情を赤裸々に告白する人もいた。だが大半は知らぬ顔で通したのではないか。
なかには驚くような人もいる。元朝日新聞記者の稲垣武著『「悪魔祓い」の戦後史』(文藝春秋)は、〃進歩的文化人〃がいかに滑稽な論陣を張り続けてきたかを逐一指摘した問題の書で、興味ある人にはぜひ一読をお勧めしたい。こんな例が出てくる。
1968年のチェコ事件後だというのに、ロンドン大学のM教授は北海道新聞(1978.3.9)に論文を寄せている。「(ソ連から日本が占領されるという)不幸にして最悪の事態が起これば、平静にソ連軍を迎えるより他ない。そしてソ連の支配下でも、私たちさえしっかりしていれば、日本に適合した社会主義経済を建設することも可能である」。ソ連の属国と化した東欧の実情をすでにみな知っていたから、当然この文章は激しい議論を生んだ。
底抜けに無邪気な、不思議な文章もある。専修大のK教授はこんな調子だ。「日本を(ソ連が)占領すると仮定する。しかし、日本の社会に文化が華開いており、自由が満ちあふれ、そして日本人が毅然とした自主的な姿勢を持って、不正な支配に屈従しない国民として生きていたならば、彼らは占領者として自らを恥じ、ひいては日本から学ぶようになるだろう」(「月刊社会党」1984年1月号)。この人が当時の東欧諸国の苦渋を全然知らなかったとは、とても信じられないのに。
ソ連崩壊後でさえも、私はこんな経験をした。向坂逸郎門下生だったであろう九州の某大学教授にインタビューした時である。教授は「共産主義利用の方法論を間違えたのであって、マルクスの『資本論』に誤りはないと信ずる」と言った。信ずるのは自由だが、『資本論』はあくまでも資本と労働に力点が置おかれている。だが経済は両者を結ぶ「流通」があって初めて成り立つ。それにあまり触れてない論調だけでは、どうしても不十分と私には思える。
 日本の左翼の人は、ソ連がダメとなると、中国革命を持ち上げ、毛沢東は詩人・哲学者だからとまで言う。だが文化大革命が失敗したとなると、今度は環境問題へ舞台を移していく。
 マスコミにもひどい記者がいて、大臣がオフレコで話した中国批判を、ご注進と中国へ告げ口し、大臣をクビにして溜飲を下げている。ありもしない中国「侵略」の文字があったと誤報したため、日本政府の謝罪を手始めに、日本攻撃の絶好のカードを相手国に与えた事例は衆知の通りである。
 いつの時代も国家は自国の主張を正統と言うだけにすぎない。第二次大戦の終結で日本は戦争を終わったものと思っていたのに、北朝鮮は「終わったとは思わない。日本人を拉致し、スパイ養成に利用するのは仮装敵国日本に対する自衛行為だ」という論理を立てていたのかも知れない。「理不尽だ」とこちらがいくら声高に主張しても、国と国との争いは所詮一国の理屈だけでは片づかない。
平和主義を唱えるのはもちろん大事だが、そもそも日本に国防の思想やシステムがあまりなかったからこそ、北朝鮮による拉致事件がいつまでも繰り返される結果となったのではないか。

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